CUE! についての話 前編

どうも、乳酸菌です。

今回の記事はちょっと表現が過激で、個人個人の信条とか死生観とかに踏み入った話をしていたりするので、見たくない人は見ないほうがいいです。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

さて、あと10日で4th Party「Forever Friends」があるわけですが、今回はそのライブの話をします。まだライブやってないけど。

 

このイベントをもって「AiRBLUE」は活動休止というお知らせがありましたから、このライブがAiRBLUEにとって事実上のファイナルライブということになります。

これまでファイナルライブを迎えたグループは多々あれど、自分がいざそれを見届ける側になるという経験は人生でも初めてです。どんなライブになるんでしょうか。ちょっと想像がつかないな。3rdライブから新しい曲を発表したわけでもなし(ゲーム収録予定だった2曲は一応新曲だけど)、アニメで新しい展開が発表されたわけでもなし、あえてファイナルということを打ち出すわけでもなし、一体どういうライブにしたいんでしょうかね。こればっかりはオタク側が何を言っても届かないし叶わないところなので、黙ってその日を待つことになると思います。

 

 

 

 

 

で、話のメインは実はそっちではなくて(手のひら返し)、上記ユニットの活動休止と同時に、アプリの再開断念も発表されました。アプリが休止して、その後3rdライブが終わっても、アニメが2クール終わっても音沙汰なかったのでまあそうだろうなとは内心思っていましたが、公式からのアナウンスで完全に希望を絶たれたわけです。お前がやらないんなら誰もできません。

そしてこれが何を意味するかというと、CUE!というコンテンツがここで歩みを止めるということです。言葉を選ばずに言えば、CUE!でこれまで描かれてきた世界、人生、そういうものが、全て「死ぬ」ということだと思っています。

 

 

 

でもちょっと待って! 2ndライブの時のエピソードとか衣装展のドラマCDとか、世界が歩みを進めている描写ってこれまでもありましたよね? そういうメッセージは確かに我々マネージャーへ向けられていたはずですよね? それを無視するんですか?

という意見があるのは理解していますし、私もそういう風に受け取っていました。でもそれは、「その先を見ることができる」という可能性ありきのメッセージであり、解釈であり、希望であるのです。例えば舞花が高校を卒業したあとどんな生活をするんだろうとか、聡里が20歳になって初めて飲むお酒はなんだろうとか、桐香先生がアメリカから帰ってくるかもしれないとか、まあそういう想像はできますが、それはただの想像であって、世界そのものではないのです。もっと言えば、それは想像している人の中の「世界」でしかないのです。

まあ、それがこの記事を読んでいるあなたの思う「世界」であって、その「世界」に終わりがないという主張はその通りだと思いますよ。とある漫画にも「人の夢は!!!終わらねぇ!!!!」というセリフがあります。この言葉で救われたり、勇気をもらえたりする人もいるでしょう。

 

 

でも、そうではないのです。私が見てきた世界は、私の中にある世界ではないのです。私以外の誰かと、ほんの少しだけ私も、みんなが作ってできたのが私が見ていた「CUE!の世界」なのです。私だけが作った世界とは、似て非なる世界なのです。上記のような私の拙い想像に誰かが答えを出したり、出さなかったり、そういう他者の介在が大いに含まれた世界を、私は見てきたし、愛していました。

 

 

 

 

本当に余談ですが、一人暮らしを始めるまでともに暮らしていた祖父母を3年ほど前に続けて亡くしました。人が死ぬ、それも近くで人生を共にしていた人が死ぬという経験は初めてでした。当時は失った辛さや悲しみに暮れたり、故人との思い出にふけったりしていましたが、同時に人が死ぬというのは「その人のことを私から認知することができなくなる」ことなんだと思いました。姿も見えず声も聞こえない、まして話しかけることもできないし、話しかけたときになんと答えるかもわかりません。当然なんですけど、これが生きている人とそうでない人の大きな違いだと私は思いました。

 

 

 

で、CUE!の話に戻るのですが、私がCUE!のキャラクターたちが生きている世界をもう二度と見ることができない、そこで起きている日常や非日常を体験することができない、という状況に置かれたとき、その世界は私にとっては「死んでいる」としか認識できないわけです。舞花が高校を卒業した後に一人暮らしを始めただとか、聡里が20歳になって美晴と一緒に日本酒を飲んだら途端に泣きはじめただとか、そういう場面は私が作ったものであってその世界で起こったことではありません。仮に起こっていたとしても、それが「本当に起こったことだ」と私にはわかりません。
「亡くなった誰々も空から見守っているよ」というやつと同じで、本当に見守ってくれているとしてもそれを「本当に見守ってくれているんだ!」とは気づけませんよね。そういう意味でCUE!というコンテンツが終了する(=展開がなくなる)と同時にそこで描かれた世界や人々は死んでしまう、と思っています。

 

巷では、というか私「「「の友人」」」は、4th Partyのことをやれ葬式だ告別式だと呼んでいますが、そういう風にとらえて葬式だ告別式だと言っています。と、かの友人は言っていました。他に言っている人がどういう気持ちかは知りませんけど。

もう一つ自分の偏見で物を言うと、葬式やら告別式やらは生者のためにあるものだと思うんですよね。もちろん私が死んで葬式をされたことないので死者の気持ちはわかりませんが。読んで字のごとく「葬る」「別れを告げる」式ですから、死者のことを見送って、悲しみや苦しみを生者で分かち合って、区切りをつけるという意味でこういう儀式が行われているんじゃないかな、と私は先述の祖父母の葬式で感じました。

なので、4thPartyに参加してこの悲しみに区切りをつけよう、というある種前向きな気持ちも葬式呼ばわりには込めています。と、かの友人が語ってくれました。

 

 

 

 

記事のタイトルは前編としています。ライブが終わった後に、ライブの感想として後編を書くかもしれないし、そんなもの書けない、と言って諦めているかもしれません。

それでは